1871年、岩倉具視らを欧米に派遣する 。不平等条約の改正が主目的。
岩倉使節団とは?
岩倉使節団(いわくらしせつだん)は、明治政府が1871年(明治4年)11月から1873年9月にかけて、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣した使節団。メンバーは計107人(正式メンバーは46人)で、派遣期間は約1年10か月。
岩倉使節団のメンバーと、その目的は?
特命全権大使(とくめいぜんけんたいし)は外務卿(現在の外務省長官)岩倉具視(いわくらともみ)で、副使は参議木戸孝允(きどたかよし)、大蔵卿(おおくらきょう)、大久保利通(おおくぼとしみち)、工部大輔(こうぶたいふ)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、外務少輔山口尚芳(やまぐちなおよし)、一等書記官田辺太一(たなべたいち)、福地源一郎(ふくちげんいちろう)以下二等、三等、四等書記官、大使随行、理事官、留学生など。
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通
出典:https://ja.wikipedia.org/wiki/
岩倉使節団の目的は、以下の3つである。
1.条約(じょうやく)を結んでいる各国を訪問し、元首(げんしゅ)に国書(こくしょ)を提出(ていしゅつ)する
2.江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約(ふびょうどうじょうやく)の改正(かいせい)のための予備交渉
3.米欧各国の制度・文物(ぶんぶつ)の調査研究
岩倉使節団の主要メンバー5人の、語呂合わせによる覚え方
岩倉使節団(いわくらしせつだん)の主要メンバーは、岩倉具視(いわくらともみ)、木戸孝允(きどたかよし)、大久保利通(おおくぼとしみち)、伊藤博文(いとうひろぶみ)、山口尚芳(やまぐちなおよし)の5人。ここでは、この5人の名前を、語呂合わせを使って芋づる式に一挙(いっきょ)に覚える方法をご紹介。
それでは、Let’s start!(レッツ・スタート!)
覚え方のヒント
ある日、一杯飲み屋にて、岩倉は友人の清(きよし)のグラスに、なみなみとビールを注(そそ)ぎながら言った。
「文鳥(ぶんちょう)がな、道を歩いていて糸巻きを拾(ひろ)ったんだ。でもな、その文鳥(ぶんちょう)は、これががま口サイフだったらもっと良かったのに、って言ったんだ。なかなかしっかりした文鳥(ぶんちょう)じゃないか。ハッハッハッ!」
岩倉使節団はどこへ行った?
岩倉使節団は、明治4年11月に日本を出発。最初にアメリカを訪問し、その後ヨーロッパへ渡った。最初に訪れたのはイギリスで、続いてフランス、ベルギー、オランダ、ドイツ、ロシア、デンマーク、スウェーデン、イタリア、オーストリア、スイスを訪問。岩倉使節団のメンバーにとって、見ること、聞くこと、体験することすべてが驚嘆(きょうたん)に満ちていた。
岩倉使節団の成果は?
大きな財政負担をして出発した岩倉使節団だったが、不平等条約の改正は進展(しんてん)させることができなかった。
当時、民衆のあいだでは以下のような狂歌(きょうか)が流行した。
「条約は / 結び損ない / 金は捨て / 世間に大使 / 何と岩倉(なんと言い訳するのだ)」
しかしながら、西洋の文物にじかに触れ、日本の現状を知り、帰国後に近代化を進めるための多くの人材を育てることができたのは、岩倉使節団の大きな成果だったといえるだろう。
また、帰国直後に起こった西郷隆盛(さいごうたかもり)らの「征韓論(せいかんろん)」を抑(おさ)え、富国強兵(ふこくきょうへい)と殖産興業政策(しょくさんこうぎょうせいさく)に努めるようになったのも、世界を見てきたからこそ導き出せたものだった。
くわえて、憲法の制定、国会の開設、貴族院(きぞくいん)と衆議院(しゅうぎいん)の設置(せっち)ができたのも、岩倉使節団の成果だといってよいだろう。
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